しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

生態系っぽい場所に幸福を感じる。

生態系っぽい場所に幸福をかんじる。

道を歩いていてたまたま見つけたぽっかりとした空き地、たとえばモノレールの高架の下の空間に、草がしげっている。草は種類によって背丈が異なり、もわもわもさもさとしている。葉のあいだや土のおもて、土のなかに虫が棲んでいて、さらに小さな菌類やカビのたぐいがはびこっている。それぞれの生きものや無機物がちまちまと生活し、出入りしている。

 

ここはそーゆー空間のようだ、ということに気づいたとき、不思議な喜びをかんじる。生態系、と言うと言葉がやや大きい。もっとこじんまりした部分。ここにはたくさんの知らないものがもぞもぞしている、と想像したとき、あの独特の幸福がある。

きれいに刈り込まれた植え込みや、人通りの多い緑地にはそれをあまり感じ取ることができない。人間から離れたところで、その空間自身がときの「厚み」を蓄積してゆくといったことが必要なのだろう。

 

ただし、わたしは生物学者ではないので、その内部に深く分け入ってひとつずつの種や生態をしらべてゆくことはできない。あくまで想像だけなので、生物学者の感じるものに比べれば、この幸福の感情も真髄を欠いたものであるかもしれない。

蜘蛛の巣が撮れない

面白いものを見つけたらiPhoneのカメラで写真を撮る。

朝のキャンパスの坂道にいたカメとか、部屋にいたバッタとか、マンションの階段にいたトカゲとか、かたつむりとか、たい焼きとか、弟の部屋で飼われている水棲のカメとか。

 

今朝は通学路にたいそう立派な蜘蛛の巣が張られてあって、それは高架橋のように坂道の上に覆いかぶさって交差していた。たいへんよろこばしいことであると思ってiPhoneのカメラを向けてみるが、画面には蜘蛛の巣がほとんど写り込んでこない。背後の日光や樹木の色が、蜘蛛の糸の細さに比して強すぎるのかもしれない。こうなるとiPhoneを前後に動かしてみても無理で、プロの昆虫写真家が大掛かりなレンズやカメラを用いるのも(それらの仕組みは知らないけれども)とりあえず納得がゆく。

 

視線をiPhoneの画面から蜘蛛の巣そのものに向けかえるとたしかにくっきりとそれはそこにある。わたしが見えているものをこの機械は映さない。目の前わずか30センチほどの近さにあるものが。このことが、おもしろいなとおもう。

 

わたしは目の前の蜘蛛の巣を捉えているけれど、iPhoneやカメラは「捉える」ということをしてくれない。人間はたいていそのようにしていて、それ以外のありかたがほとんどない。

そこにそれがまさしくそれとして存在している、という心身の姿勢が人間にはある。なにかを捉えていたり捉えていなかったりすることと、心身がそれに対応した姿勢にあることは、本質的に等価なことなのだろう。つまり、心身のある状態や機能が先に存在していて、その能力がわたしの内側から外界に見えない触手を伸ばし、対象物を探り取り、ようやく掴み取るのではない。姿勢と対象は別個のものではなくて、不可分のことなのだとおもう。強いていえば、リズムとリズム、波形と波形の共振が最初にあって、そこからスペクトルが徐々に分解されてゆく。ところが分解されて現れたものを最初のものと誤認してしまう。認識の「両端」に見るものと見られるものを対置して、それぞれの連続性や恒久性(物体の、あるいは身体や精神の)をごりごりと切削しようとしてしまう。

その方向で技術を進めてゆけば、蜘蛛の巣を撮影することのできるスマートフォンも発明できるかもしれない。けれど、「蜘蛛の巣が撮影できないな」という発見のなかに潜んでいるいろいろな共振なノイズを受け止め直すことは、できなくなってしまう。そういう気がする。

話が飛躍しすぎた。

 

伊能図を正確だと直観できてしまうことのふしぎさ

伊能忠敬の地図が、不思議だなとおもう。

不思議なのは、あれを見たひとのおそらく全員が、「この地図が本物の地図なのだ」と確信してしまうということ。

 

それは江戸時代にあの伊能図を見た幕府の役人もそうだっただろうし、現代の人間もそう感じる。それ以前の地図と比べると決定的にちがう、ということがひと目でわかる。

 

この直観に確たる根拠は実は無いのではないか。だって、だれも、日本の地形を上空から見たことはないのだから。とくに江戸時代の役人は航空写真や衛星写真といったものを見たことがない。したがって、あらかじめ地形の正確さについての知識があったわけではない。けれども、伊能図を見れば、これこそが本物の正確な地図だと確信せざるをえなかった。

 

伊能図が正確なのは、測量をしたから。

伊能忠敬たちは、ある基準点からの距離と方位をくりかえし算出し、そうして得た座標群を縮尺して紙上にプロットし、地形を描出した。言いかえれば、ある地点はある地点に対して緯度経度でどれだけ離れているかということを、すべて数値で表現した。

 

しかし、「だから正確なのだ」という納得をしてしまうと、ここでの問いから滑り落ちてしまう。これはすでに「伊能図側」の時代にいる人間の納得の仕方である。

実のところ、測量とは何かということを知らない人間であっても、やはり伊能図の方が、それまでの地図と比較して、全く段違いに「本物だ」ということをすぐに確信してしまう。「数学的に測量を重ねた結果であるから」という説明は、伊能図の「本物さ」という直観を後から補充するにすぎない。伊能図とそれ以前の地図を見比べても何も違いを感じず、前者は測量によって得られた地図だと説明されることで初めて伊能図の方がなんだか正確に見えてくる、ということは、おそらくありえない。

 

伊能図が本物で正確だと直観してしまうのはなぜか。ひとつには、地形についての余分な情報が余すところなく含まれているからだろう。それまでの地図は、「だいたいこんなかんじ」というフィーリングで地形を描いていた。したがって、たとえば半島を描く際も、それがその半島であるというおおまかなカタチを描けばそれで十分であり、その半島の東側の海岸線と西側の海岸線のどちらがどれくらい長いか、どこに小さな湾曲があるか、といったことは省略された。船着き場になる湾など、役にたつ地形、目印になる地形であれば書き込まれた。基本的に「必要な」地形だけが選択された。

これに対して、伊能図はそうした「余分な」地形もすべて測量した。したがって、同じ半島でも、筆でシュッと描くのとは違って、独特の凸凹具合で描かれることとなった。人間の普段のフィーリングとは異質なものが表出されていた。*1

正確に言えば、要らないものも描いたというより、すべての地形を平等なものとして扱った、ということになろうか。全ての「場所」は、ただ緯度と経度の情報のみに変換された。重要な都市や街道などは、座標と地形描出が全て完了してから、あらためて付加的に書き込まれた。ある場所が重要か否かということと、その場所の座標の数値は全く関係が無かった。

 

すると伊能図が「正確」だと直観されるのは、実は人間の価値観や知覚からいったん離れて、数学的測量という仕方でリセットされているから、ということになる。伊能図を見たひとの「これこそが本物の地図だ」という直観の中身は、「これはぼんやりと描かれたものではない」という直観だった。

これは実はとても奇妙なことで、自分自身の錯覚や価値観や直観からいったん離れて提示されたものを、逆に「正しい」と直観することができてしまう、ということである。

 

このように考えましたが、だんだんと知識の不足が感じられますので、いったん終わることにします。

*1:伊能図でも川や山はけっこうシュッと描かれているんだけども

文系院生、工学型の「発表12分・質疑応答3分」学会発表を初めて体験する

一昨日と昨日、災害復興学会に行って発表をさせてもらった。

場所は兵庫県立大学の旧神戸商科大学キャンパス。初めて訪れたが、こじんまりしていて、建物と木々が美しくて、いいところだなぁと感じた。ここで学ぶ学生は自然と気持ちが落ち着いてくるだろうな、と思った。

 

学会運営は各所がきちっきちっとしてダレるところがなく、災害現場でぐりぐり実践しているひとたちの集団という雰囲気があった。

 

ところで単独での口頭発表を今回はじめてさせてもらって驚いたのは、ひとりあたりの持ち時間が15分しかないこと。発表12分、質疑応答3分という規定。

 

哲学の学会では「口頭発表30分、質疑応答20分」というのがよくあるパターンなので(もっとも、50分中45分くらい喋りまくってほとんど質疑を容れない人も多い……)、「12分と3分」というのは初めての体験だった。

とにかく発表者がどんどん入れ替わってゆく。発表者のみなさまはいずれも、研究背景、先行研究、リサーチクエッション、考察、発見、結論、今後の課題、提言といった流れでぽんぽんコンパクトに投げかけてゆく。とても効率が良い。

 

災害復興学会は学際的な学会で、都市計画、建築学社会学、質的心理学といった分野で自然災害復興に関わる研究者や、NGONPO・行政関係者が集まる。強いていえば理系7割:文系3割ぐらいのイメージだろうか。この「12分と3分」はたぶん工学畑のひとたちの文化なのだろうとおもう。

 

さて「30分と20分」に慣れた自分が「12分と3分」でやってみるとどうなるか。自然、どうしても内容を詰め込みすぎるはめになった。とくに自分は「どうやってその問題に入り込むか」ということ自体を意識して記述するので、序盤もたもた、後半はコンテンツ多すぎ、というかんじになったような気がする。反省点。

 

「12分-3分」型の口頭発表は、議論をぐぐぐと深める場というよりは、報告と情報交換をざくざくすすめる場ということなのだろう。じっくり議論したい場合はポスター発表のほうが良い。(※ここまで書いてやっと気づいたが、今回自分はポスターと口頭の両方をさせてもらったのだけれど、ポスター発表でとりあげたテーマがむしろ口頭発表の方に向いていた。逆にすればよかったかも?)

 

30分-20分と12分-3分のどちらが優れているか。当然一長一短、結局のところ文化と伝統の問題で、郷に入れば郷に従えというものでしかないだろう。

個人的な意見を言わせていただくと、哲学の学会で「では原稿を読み上げるかたちで発表させていただきます」と言って、後は顔を上げずにただ原稿を早口でだーっと読み上げてゆくだけという人も多いけれど、あまりに芸が無い。対話もない。

他方、「質疑応答3分」というのも、実際に参加してみるとちとしんどいなと感じた。やはり対話にはなかなかならない。3分では質問者2人がぎりぎりで、他のひとが手を挙げるかもとちょっとビクビクしてしまう。

 

発表15分・質疑応答15分というのがちょうど良いような気がする。しかし発表者数を半減させることになってしまう。唯一の解は無いのだろう。

 

畑違いの人間が迷い込むと、受け入れる側にはいろいろご迷惑をおかけするし、自分でも慣れないことにぽつぽつつまずくけれども、経験値を荒稼ぎできることは確かで、参加させてもらってありがたかった。

最後になりましたが、ポスター発表、口頭発表のそれぞれをお聞きくださったみなさま、ご質問・コメントをくださったみなさま、また学会本部のみなさまにお礼申し上げます。本当にありがとうございました。改めて気持ちを込めなおして研鑽に励みたいと思います。

感極まって何も言えずにただ深々とお辞儀をするというドラマ演出のクソさ

実家に帰るとテレビドラマを見ることになる。主人公が、周囲のひとびとの温かい拍手や助けをわーっと寄せられて

 

感極まって何も言えずにただ深々とお辞儀をする

 

という演出がやたらと多い。

 

クソかって思う。そもそもそんなタイミングでの無言の「お辞儀」見たことねーよ、というのがひとつ。

お決まりの演出ばっかしてんじゃねーよ、というのがひとつ。

最後に、この「感謝と感激で何も言えなくなってただお辞儀するしかない」という動作を当てられるのが、若い女優(特に20歳代で、奮闘新入社員みたいなキャラ)が多いということ。

 

感極まって何も言えなくなるということは、そりゃ無いでもない。

けれど、やっぱりそのあと何かのことばが続くはずであって、お辞儀だけで終わるものではない。

 

「若い女性はことばを持たない」というイメージが演出の裏にあるような気がする。

イメージという言い方は曖昧で良くないのだけれど。

 

あるいは、持ってほしくない、というか。

 

国立国会図書館のデジタル化資料送信サービスを使ってみた

学内に無い論文の複写取り寄せを大学付属図書館に依頼したら、「国立国会図書館デジタル化資料送信サービス」で閲覧できるから取り寄せ依頼はキャンセルさせてもらうねと返信をいただいた。

 

図書館向けデジタル化資料送信サービス|国立国会図書館―National Diet Library

 

国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されたデータの一部は一般公開扱いで、自宅PCなどから誰でも閲覧できる。それら一般公開以外のデータも、大学図書館の専用端末からスキャン画像やPDFを閲覧できる。それがこの「デジタル化資料送信サービス」。

 

資料の検索画面はやや使いにくい。できればCiniiとインターフェイスを合わせて欲しい。とはいえ、欲しい書誌情報があらかじめ決まっている場合は、ぽちぽち検索しているあいだに見つかる。

 

で、ここからが本番なのだけれど、探し出したデータのコピーを手元に残したい。しかし「いま閲覧しているデータをPDFとして保存する」といった機能は無い。*1

 

そこで、「国立国会図書館デジタル化資料複写申込書」という用紙に氏名や書誌情報を記入して大学図書館の窓口に提出する。

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(紙で隠しているところには、申込者の氏名、所属、身分、支払い区分、連絡先、講座責任者名を書きます)

 

公費なら1枚10円、私費なら1枚20円になる。今回は私費で70枚、1400円を支払う。

 

この申込用紙を提出、受理された後、数時間後に「印刷終わったから窓口に取りに来なさいな」とメールをいただく。現金で支払い、紙に印刷された資料と領収書を受け取る。

 

PDFでクレ。

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このあと、受け取った印刷資料をScanSnapでPDF化した。

国会図書館サーバ→画像データ(おそらくPDF)→大学図書館→印刷→ぼく→スキャン→PDF

という雅な手順を踏むことになるわけで。いったんデータで送信されたものを、なぜ紙媒体に落としてから渡されなければならないのか、理解に苦しむ。データのやりとりだけなら紙の使用も減るし、窓口業務も減るし、料金も抑えられるだろうに…(有料であること自体はかまわないのだけれど)。

 

おそらく著作権との絡みがあるんだろうけれども、現代ではScanSnapのおかげでPDFと紙の境目はかなりシームレスになっている。紙で渡すから著作権が守られる、ということにはならない(もちろん、わたしは自前でPDF化した資料を一般公開しないけれど)。

著作権上の制約があるなら、「画面上でのみ閲覧可、PDFも紙もダメ」と「閲覧可、PDFでDLも可」に分けるべきであって、「紙なら可」と「PDFも可」の間で線引きをするのは本質的ではないようにおもう。

 

分野によると思うんだけれど、この手の文献漁りが卒論や修論では集中的に必要になる時期がある。取り寄せサービスを使っていると、論文一本につき500円ぐらいぽんぽん飛んでゆく。もともと有料の論文雑誌サイトからサブスクリブする場合はしょうがないけれども、本来は無料あるいは可能な限り廉価で閲覧されることを目指しているはずの学術アーカイブで、上記の妙な紙信仰のような理念のために印刷代として500円や1000円払わなきゃならんのはあまり合理的とはおもえない。学部生や院生のHPもけっこう削れてゆく。

 

*1:インターネット一般公開のデータの場合はPDFがぽんと置いてあってDLできるのだけれど

死の直前の苦痛に意味はあるか

わたしが快楽殺人鬼に捕まったとする。かれはわたしを手術台に縛り付け、数時間、わたしを拷問する。そして最大の身体的・精神的苦痛を最後の5分間に与えたのち、わたしを絶命させたとする。

もちろんそんなことは、わたしであれ他の誰であれ、体験しないに越したことはない。恐怖や苦痛は、それを経てより大きな幸福が獲得される(あるいはより大きな苦痛が回避される)と当人が確信するのでないかぎり(たとえば歯医者の治療)、あらゆる場面において低減され回避されるべきだ。

 

とはいえ、さて、わたしの死の直前の5分間の言語に絶する苦痛は、はたしてどこまで意味があるだろうか。だって、わたしが死んでしまえば、苦痛の感覚・経験・記憶はすべて吹っ飛んでしまうのだから。

わたしは極限的な責め苦の最中にも、捜査班がかけつけてわたしを最後の最後に救出してくれることを信じている。もしそのようにぎりぎりで救出され救命されたなら、わたしは捜査班に感謝し、その後の人生を享受し、殺されそうになった記憶に苛まれ続けるだろう。

けれども、助けは来ず、わたしは殺されたとする。すると、痛みや恐怖を受け持っていたわたしの意識は霧消してしまう。そのとき、わたしの痛みや恐怖は、わたしにとって、何の意味を持つだろうか。「わたしにとって」の「わたし」が消えてしまうのなら、「わたしにとっての意味」など成立しようがない。

 

わたしの家族や知人にとっては依然として意味がある。わたしの死体が発見されたなら、わたしが受けた恐怖や苦痛を想像して、かれらは激しく苦しみ、嘆き、犯人を憎むだろう。その意味では、わたしの死後もわたしの持っていた苦痛は意味がある。すなわち、感覚や感情や思考や行動を引き起こす。

 

けれどもいま考えているのは、「死の直前のわたしの苦痛は、わたしにとって意味があるか」ということだった。

苦痛の真っ只中の「いま」において、まさに苦痛を感じている。「いま」の苦痛が「いま」において意味があることは確かだ。なぜなら、苦痛はそれ自体が感覚や感情であり、そこから逃げたいという意思や行動を引き起こすから。そもそも苦痛とは、それを感じているわたしを「いま」に強引に結びつけ、そこから剥がさないという体験である。

ただし通常の痛みの体験では(たとえば歯医者の治療中)、苦痛を「いま」において感じていると同時に、苦痛の先の未来が控えている。その未来が到着したとき、「いま」は「あのとき」になる。苦痛が無くなった未来の「いま」の時点から、「あのとき」を思い起こすことができる。

ところが死んでしまって、「あのとき」も「いま」の構造が失われてしまったなら、すでに「いま」の痛みの感覚は無いし、「あのとき」感じていた痛みの体験の蓄積も失われてしまう。すると、死から遡ってみたとき、直前の五分間の痛みに意味はあるだろうか、という疑問が生じる。

 

実際に死んだなら、死後に「死の直前の体験」を遡って吟味することも不可能になる。だから、「遡って考えたときに意味があるか」という問いそのものが間違っているかもしれない。

 

いったん打ち切ります。