しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

死の直前の苦痛に意味はあるか

わたしが快楽殺人鬼に捕まったとする。かれはわたしを手術台に縛り付け、数時間、わたしを拷問する。そして最大の身体的・精神的苦痛を最後の5分間に与えたのち、わたしを絶命させたとする。

もちろんそんなことは、わたしであれ他の誰であれ、体験しないに越したことはない。恐怖や苦痛は、それを経てより大きな幸福が獲得される(あるいはより大きな苦痛が回避される)と当人が確信するのでないかぎり(たとえば歯医者の治療)、あらゆる場面において低減され回避されるべきだ。

 

とはいえ、さて、わたしの死の直前の5分間の言語に絶する苦痛は、はたしてどこまで意味があるだろうか。だって、わたしが死んでしまえば、苦痛の感覚・経験・記憶はすべて吹っ飛んでしまうのだから。

わたしは極限的な責め苦の最中にも、捜査班がかけつけてわたしを最後の最後に救出してくれることを信じている。もしそのようにぎりぎりで救出され救命されたなら、わたしは捜査班に感謝し、その後の人生を享受し、殺されそうになった記憶に苛まれ続けるだろう。

けれども、助けは来ず、わたしは殺されたとする。すると、痛みや恐怖を受け持っていたわたしの意識は霧消してしまう。そのとき、わたしの痛みや恐怖は、わたしにとって、何の意味を持つだろうか。「わたしにとって」の「わたし」が消えてしまうのなら、「わたしにとっての意味」など成立しようがない。

 

わたしの家族や知人にとっては依然として意味がある。わたしの死体が発見されたなら、わたしが受けた恐怖や苦痛を想像して、かれらは激しく苦しみ、嘆き、犯人を憎むだろう。その意味では、わたしの死後もわたしの持っていた苦痛は意味がある。すなわち、感覚や感情や思考や行動を引き起こす。

 

けれどもいま考えているのは、「死の直前のわたしの苦痛は、わたしにとって意味があるか」ということだった。

苦痛の真っ只中の「いま」において、まさに苦痛を感じている。「いま」の苦痛が「いま」において意味があることは確かだ。なぜなら、苦痛はそれ自体が感覚や感情であり、そこから逃げたいという意思や行動を引き起こすから。そもそも苦痛とは、それを感じているわたしを「いま」に強引に結びつけ、そこから剥がさないという体験である。

ただし通常の痛みの体験では(たとえば歯医者の治療中)、苦痛を「いま」において感じていると同時に、苦痛の先の未来が控えている。その未来が到着したとき、「いま」は「あのとき」になる。苦痛が無くなった未来の「いま」の時点から、「あのとき」を思い起こすことができる。

ところが死んでしまって、「あのとき」も「いま」の構造が失われてしまったなら、すでに「いま」の痛みの感覚は無いし、「あのとき」感じていた痛みの体験の蓄積も失われてしまう。すると、死から遡ってみたとき、直前の五分間の痛みに意味はあるだろうか、という疑問が生じる。

 

実際に死んだなら、死後に「死の直前の体験」を遡って吟味することも不可能になる。だから、「遡って考えたときに意味があるか」という問いそのものが間違っているかもしれない。

 

いったん打ち切ります。

「聞こえること」の解像度(4) モノノケの声

 聞こえること。何かが聞こえてくること。そのことを少しずつ考えている。

 

 昨日の夜、台風の暴風圏が差し掛かっていただろうころに、用事があって大学のキャンパスにいた。吹き付けてくる風に芯があって、建物の壁や樹の隙間を強引に押し通っている。どうどう、とか、ひゅうひゅう、といった音が断続して耳の回りを切ってゆく。そうした聞き慣れた音たちの中に、笛の音のような甲高い音がかすかに混じってくる。

 その音はほんとうにかすかで、どこから鳴ってくるのかわからない。

 音の方向に顔を向けると聞こえなくなる。別の方向を向くと、またその音が追いかけてくる。周波数と耳の角度の間に何かの関係が成り立っているのかもしれない。追おうとすると消え、フォーカスを外すと聞こえてくる。どことなく、遊ばれているような気になる。

 

 わたしをからかっているのなら、「それ」は意思を持つのだろう。昔のひとは、妖怪や妖精といった存在をそこに読み取った。聞こえるからそこに存在するというモノは、現し世のモノである。聞こえたり聞こえなかったりするからそこに存在する、というモノは、モノノケである。人間の耳の構造は、妖怪や妖精やモノノケを許容する。けれども知覚と実在を強固に結びつける科学的態度は、虚と実の隙間にに棲むモノノケを排除する。

 

 しばらく歩き回っていると、あの「笛の音」はグラウンドの金網が強風によって立てている音らしいと推測がついた。わたしの科学的態度によって、風のなかから笛の音で人を惑わす妖精やモノノケは消失した。けれども、音が聞こえたり聞こえなかったりしていたとき、顔をあちこち向けて、あれ?あれ?と耳を風に当てていたときは、わたしはまだそれほど科学的な身構えをしていなかった。耳や体はそういう仕組みを持っているようにおもえる。

NHKに引っ越しを把握されてたのがすごく気持ち悪い。

陸風のなか、NHKの受信契約をお願いしますという方が来た。

テレビ置いてないんですが、と答えるとすぐに帰ってしまわれた。無駄足を踏ませてしまって申し訳ない気がする。一人暮らしを始めてもう8年になるけれど、ずっとテレビは置いていない。その他の受信設備も無い。

 

わたしがテレビを置いているか否か、最近買ったかどうか、NHKの側では知りようが無い。だから、定期的に訪問されるのは別に構わない。

 

ただ、「前の家でも契約されていませんでしたが」と言われたのは、気味が悪い。

NHKは、わたしが引っ越したことをなぜ知っているのだろうか。

 

2年前、わたしは今のA市S町のマンションに引っ越してきた。その前はB市K町のアパートに住んでいた。B市K町のアパートでも、引っ越してすぐにNHKの受信契約のお願いが来た。テレビが無いことを伝えてやはりお引き取りいただいた。

このとき、NHKのデータベースには「B市K町のアパート○○に住むT某は受信契約無し」と記録されたはずである。それは、構わない。

 

その後わたしはここA市S町に引っ越した。もちろん、NHKには何も伝えていない(そもそも伝えるべき内容も必要も無い)。だから、誰かに教えてもらわないかぎりB市からA市に引っ越したことは知らないはずだし、今のマンションに住む私とB市に住んでいた私が同一人物であることもわからないはずである。けれども、きょう来た職員の方は、以前のお住いでも……ということを仰った。

 

検索してみると、郵便局の転居届からNHKに情報が回るという話があった。

yubin-tensou.info

しかしこの書式で出した記憶は無い。

 

かれらは、どこでどうやって、わたしが引っ越したことを知ったのだろうか。郵便局でなかったとしたら、不動産仲介業者や引越し業者などからだろうか。そこらへん、昔からのいろいろなノウハウがあるのだろう。21世紀の表皮を剥がすとあちこち昭和が見つかる。そーゆーアレなのかもしれない。やめてほしい。

 

個人的には、「個人情報」についてそこまで過敏ではない性格のつもりで、どこからか漏れた名簿をもとにDMや勧誘電話が来るぐらいのことなら、さして気にならない。けれども、今回はとても気持ちが悪い。引っ越しという行為や自分のそのときどきの居場所について、自分の知らないところで確かめられている。何も教えていないのに先回りして「引っ越ししたんでしょ」と告げられるのは、なんともいえずイヤなかんじがする。やめてほしい。

 

 

「聞こえること」の解像度(3)意味の広がりとまとまり

 聞こえるということを何度か考えなおしてた。

 ひとつの音にはひとつの音源がかならず対応する、と以前書いた。

「聞こえること」の解像度 - しずかなアンテナ

「聞こえること」の解像度(2) 音と時間 - しずかなアンテナ

 

 ひとつの音源には、それがひとつの何かである、というひとつの意味が対応する。建設現場から、カン、カン、カン、という音がする。ひとつの「カン!」は、大工さんがハンマーを振るっている音で、たぶんハンマーと釘の頭からその音は生まれている。「カン!」というひとつの音は、「槌音」というひとつの意味を持っている。

 けれども、しずかにその音を聞いていると、そこには単一の意味だけではなくて、いろいろな広がりがある。ハンマーの材質……鉄ではなく木かもしれない。打ち込むとき、少し力を緩めている……力任せに叩くと資材を痛めてしまうのかもしれない。空気が乾燥しているかんじ。つまり、いろいろな意味を「聞き取る」ことができる。槌音だと片付ければ槌音だけで済んでしまうし、じっくり聞いてみればいろいろな情報が取り出されてくる。

 意味の聞き取りには、聞く側の経験も影響している。大工の親方は、おなじ「槌音」から、そのひとの技能の良し悪しや体調を「聞き分ける」かもしれない。わたしにとっては単なる「カラスの鳴き声」と聞こえている音を、鳥類の研究者はハシブトガラスハシボソガラスか聞き分ける。

 このように、ひとつの音にはいろいろな意味の広がりが内包されている。とはいえ、異なる音程がコードのように別個に組み込まれているわけではない。「ハンマーを打ち下ろす直前に力を少し抜くかんじ」と、「金属と金属がぶつかっているというかんじ」は、別々の周波数で分離して聞こえてくるのではない。それは依然として確かにひとつの音で、多様だけれどもひとつのまとまった意味(「槌音」)として現れている。

「聞こえること」の解像度(2) 音と時間

 先日、音について考えていた。(「聞こえること」の解像度 - しずかなアンテナ))

 ひとつの音にはひとつの音源が対応する、といったことを書いた。けれども、そのあともういちど考えてみると、「ひとつの音」とはなんだろう、ということが意外とわからない。

 上記エントリで例に用いた、大工さんの槌音とか、机を叩く音とか、猫の鳴き声などはわかりやすい。「トン」とか「カン」とか「にゃー」とか、ひとつのまとまりとして捉えやすい。それを〈ひとつ〉として聞くことができるのは、なによりそれが聞こえる時間が短く、「聞こえ始め」から「音の消滅」までを〈ひとつ〉として受け取ることができるからだ。

 ところが、そうした明瞭な「始まり」「終わり」の無いような音もある。洗面台で顔を洗っているとき、耳元で水が蛇口から落ちる音がずっと聞こえていた。あの「ジャーー」という音は、「ぽん!」や「ゴトリ」のように一撃ではなくて、終わりのない「ジャーー」である。本当は「ー」(伸ばし棒)が顔を洗っているあいだずっと伸びているわけだから、仮に書くとすれば「じゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」が正しい。

 この際限の無い「ジャー…」もまた、わたしはひとつの音として聞いているはずだけれど、「ぽん!」の際のような「音の終端」を受け取ることができない。わたしがカランをひねって水を止めたとき、ようやく音は消える。けれどその音が消えるということは、〈ひとつの音〉がそこでやっと完成するというのではない。水道代がもったいないから水は早めに止めるけれど、たとえば滝の音や雨の音といったことは、「ここ」というところで切り上げられることがない。〈ひとつの音〉であるけれど、それを〈ひとつ〉として捉えようとするほど、時間の先に逃げていってしまう。〈ひとつ〉として聞くということは、なんなのか。

 

 水道の音や、滝や雨の音は、時間のなかで区切るということができない。ただし、ひとつの音源から出ているものとしては区切ることができる。これに対して、環境音や、どことなくざわざわしたかんじとか、背景音といった音は、時間の上でも音源のうえでも区切ることができない。都会の人通りの激しいところにいると、車のエンジン音や商店の呼び込みやすれ違うひとの話し声などが、〈ひとつの音〉として聞こえてくることがある。けれどもその「背後」には、どうにもざわざわした、都会のかんじとしか言いようのない音の網目が広がっている。エンジン音や呼び込みの声は、その背景からにゅっと前景に出てくる。このとき、背景のざわざわそのものを〈ひとつの音〉として捉えることは難しい。

阪神大震災当日の二階俊博議員の動き

 二階俊博衆院議員(現自民党幹事長、当時新進党所属)が、1995年1月17日の阪神大震災発生当日にどのように移動していたか。たまたま当人の手記(二階俊博『日本の危機管理を問う 阪神大震災の現場から』プレジデント社、1995年)をちらっと読んだのだけれど、移動の激しさに興味を持ったので少し紹介してみる。

 

 阪神・淡路の地震が起きた午前五時四十六分、丁度私は大阪の東洋ホテルで、新幹線の一番電車に乗ろうとして、十二階からエレベーターに乗る寸前でした。(…)

 とっさに私は、むしろ状況調査のために直ちに現地に赴いたほうがいいかなとも考えましたが、丁度その日、私どもの「明日の内閣」、いわゆる政権準備委員会の閣議を開く日になっていましたし、私一人が現地へ飛んでいったところで、何ほどのこともできるわけでもありませんので、やはりまず東京の新進党の同志にこのことを伝え、共に対応を協議することが重要であると思い、取り急ぎタクシーを拾って、新大阪へ走りました。 

 

大阪の東洋ホテル→東京を目指して新大阪駅へタクシー移動

 

 しかし、新大阪に着くと新幹線は不通になっており、さらに伊丹空港にかけつけました。伊丹から羽田に飛び、モノレールを乗り継いで、国会に到着したのが九時ちょっとすぎでした。 

 

新大阪駅→伊丹空港→羽田空港→国会

 

 「明日の内閣」の閣議はすでに開かれており、新進党は直ちに現地に調査団を出そうということになりました。(…)一番早い便としてまず岡山空港へ向かい、そこからあらかじめチャーターしておいた民間のヘリコプターで現地へ向かうことにしました。(…)江田五月議員が地元岡山市の消防団から、防災服や長靴等を借りて、岡山空港に用意しておいてくれました。

 

 

国会→羽田空港?→岡山空港

 

 私たち一行が現地の上空に到達したのが午後三時二十分頃で(…)自衛隊の姿などはほとんど見かけませんでした。(…)アメリカから成田に到着したばかりの小沢幹事長にもヘリコプターの上から自動車電話につながりました。 

 

岡山空港→被災地上空(ヘリ)

 

 私たちは空からの調査のあと、小池百合子代議士の手配で、伊丹空港から車で神戸市役所に向かうことになっていました。(…)しかしながら、夕方の五時頃でしたが、神戸へと向かう道は大渋滞で、車は前にも進めず、後ろにも戻れないような状態になりました。 

 

被災地上空(ヘリ)→伊丹空港→神戸市役所を目指して車で移動開始→渋滞に捕まる

 

1月17日、現地を調査した私は、その日の夜東京に帰り、党幹部に報告をすると同時に、国土庁を訪れ、現地の様子を報告しました。 

 

渋滞→大阪へ戻る?→東京へ

 

以上、まとめると「大阪→東京→岡山→被災地上空(ヘリ)→伊丹空港→神戸市役所を目指すが渋滞→あきらめて?東京へ」という経路。政治家の行動力とはこういうことか、と素直に関心する。とにかく移動する、動く、というのが、政治家の生存には必須の姿勢なのかもしれない。たぶん単純な移動距離では、1月17日当日に日本国内でもっとも移動した人間だろう。ありがとうございます、と言いたい。

 渋滞に捕まったところまでは書いているが、そこからどうしたのかは明記していない。おそらく尼崎〜西宮近辺で神戸入りをあきらめて伊丹空港へ再び戻り、空路帰京したのだろう。後知恵になるけれど、伊丹に降りてから神戸市役所に向かうというプランはかなり無茶に思える。おそらく東京と大阪の新進党本部が泥縄式に計画を建てざるをえなかったのだろう。

 政府の対応が遅れている間に二階氏は大阪→東京→岡山→ヘリで上空、という華麗な折り返しを決めていたが、さてこのヘリでの視察にどれくらいの意味があったのか、評価は難しい。二階氏および同乗の議員たちは、被災の質や広がり、交通状況などを上空から丁寧に読み取るスキルを持たない。これも後知恵の批判になってしまうけれど、上空から携帯電話で伝えても、テレビ中継以上の情報はもたらせなかったのではないか。とはいえ、テレビ画面を介して観るのと、上空からとはいえとにかく生身で知ることには雲泥の差があるだろう。行かない、という選択肢は無いだろう。

 もしヘリで伊丹空港に帰らず、市役所か県庁近くに着陸し、大阪へ送受信できる無線機と発電機を設置して現地本部を立ち上げたなら、歴史に残る大アクロバットだっただろう。(二階議員には土地鑑が無いし、現実には絶対不可能だけれども)

 

 なお、著者の二階氏はその後小沢一郎とも分離して保守党を立ち上げ、政党消滅の辛酸をなめたのち、自民党に復党。出戻り組であったが勢力を盛り返し、現在は自民党幹事長。

 手記で新進党幹事長として登場する小沢一郎氏は、現在自由党党首。同党の勢力は衆参合わせて6議員。

 ちらっと出てくる小池百合子氏は現在東京都知事で、国政進出の機を伺っている。

 22年前の彼らに現在の立場を教えてあげたら、驚くだろうか。それとも案外驚かないだろうか。

 

 

犬はカメラ目線ができない

 実家では犬(黒ラブラドール、オス)を飼っている。この犬の写真を撮ろうとおもってiPhoneを向ける。すると、直前まではわたしの顔を見ていたのに、ぷいと脇へ目をそらしてしまう。人間なら「カメラ目線」ということをしてくれるが、犬にはそれが難しいらしい。

 

 かれはカメラやiPhoneが何かを知らない。かれの視点からすると、直接顔と顔を突き合わせていたところに、わたしが突然に黒いモノリスをその間に差し入れた、ということになるだろう。ずいぶんと失礼な振る舞いにちがいない。

 そしてどうやら、小さな黒いモノリスの「向こう側」に、依然としてわたしの顔と目がある、ということが犬にとってはあまり知覚されないらしい。正確に言えば、わたしの顔と体全体の存在は維持されているけれど、「視線」は途絶えてしまっているらしい。

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↑わかりやすい例。ちょっと明後日の方向へ逸らしてしまう。 

 

 人間の場合、撮影者が顔前にカメラを構えても、それを〈貫通〉して視線が維持されているということを知覚している。だから「カメラ目線」という振る舞いが可能になある。これは推測や思考によって実現されているのではなく、もっと自分の身体に近いレベルで理解されていることである。見知らぬひとにカメラを急に向けられたときのビクッとするかんじは、考えて成立しているものではない。じぶんと他者はそれぞれ視線という「存在の仕組み」を備えていて、それは顔の前に構えた四角い箱や板によって遮られることはない(むしろ独特の仕方で強化されている)、ということを理解している。カメラという道具の意味を理解している。

 犬にはそれが無いように思える。動物写真家の撮った写真には、うまくカメラ目線になっているように見えるものもあるけれど、どちらかといえば「カメラを貫通して写真家と目を合わせあっている」というよりは、「物体としてのカメラそのものに好奇心を持って近づいたところにうまく視線の軸が物理的に合った」というケースが多いように見える。写真家にとっては自分の視線とカメラの視線が知覚のレベルで合体しているけれど(この合体は物理的に同角度だということだけでは実現されない)、動物の側では、身体全体のフォーカスはカメラの裏側ではなくカメラそのものに向いている。