しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

犬はカメラ目線ができない

 実家では犬(黒ラブラドール、オス)を飼っている。この犬の写真を撮ろうとおもってiPhoneを向ける。すると、直前まではわたしの顔を見ていたのに、ぷいと脇へ目をそらしてしまう。人間なら「カメラ目線」ということをしてくれるが、犬にはそれが難しいらしい。

 

 かれはカメラやiPhoneが何かを知らない。かれの視点からすると、直接顔と顔を突き合わせていたところに、わたしが突然に黒いモノリスをその間に差し入れた、ということになるだろう。ずいぶんと失礼な振る舞いにちがいない。

 そしてどうやら、小さな黒いモノリスの「向こう側」に、依然としてわたしの顔と目がある、ということが犬にとってはあまり知覚されないらしい。正確に言えば、わたしの顔と体全体の存在は維持されているけれど、「視線」は途絶えてしまっているらしい。

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↑わかりやすい例。ちょっと明後日の方向へ逸らしてしまう。 

 

 人間の場合、撮影者が顔前にカメラを構えても、それを〈貫通〉して視線が維持されているということを知覚している。だから「カメラ目線」という振る舞いが可能になある。これは推測や思考によって実現されているのではなく、もっと自分の身体に近いレベルで理解されていることである。見知らぬひとにカメラを急に向けられたときのビクッとするかんじは、考えて成立しているものではない。じぶんと他者はそれぞれ視線という「存在の仕組み」を備えていて、それは顔の前に構えた四角い箱や板によって遮られることはない(むしろ独特の仕方で強化されている)、ということを理解している。カメラという道具の意味を理解している。

 犬にはそれが無いように思える。動物写真家の撮った写真には、うまくカメラ目線になっているように見えるものもあるけれど、どちらかといえば「カメラを貫通して写真家と目を合わせあっている」というよりは、「物体としてのカメラそのものに好奇心を持って近づいたところにうまく視線の軸が物理的に合った」というケースが多いように見える。写真家にとっては自分の視線とカメラの視線が知覚のレベルで合体しているけれど(この合体は物理的に同角度だということだけでは実現されない)、動物の側では、身体全体のフォーカスはカメラの裏側ではなくカメラそのものに向いている。

 

「聞こえること」の解像度

 自宅のすぐ近くで新築工事が始まっている。足場を組むための槌音や、ホッチキスの親玉みたいなのを打ち込む道具(あれ、なんて呼ぶんだろう)の作動音が聞こえてくる。涼しくなったので窓を開けていたらトテカントテカンガッガッガッと作業の音が聞こえてくる。うるさいなと思っていたけれど、昨日あたりから慣れてしまった。

 大工さんがハンマーや器材で何かを打つ音は、トントントン、カンカンカン、と連続して聞こえてくる。ひとつの「カン」が、ひとつの打撃であることはよくわかる。「カンカンカン」と3回聞こえてきたら、ハンマーを3回打ったということはまず確実である。言い換えれば、「トントントン、カンカンカン……」という一連なりの音は、最小単位の「トン」や「カン」が順に送り出されて聞こえているもの、ということになる。

 

 ツクツクボウシの鳴き声をじっと聞いていると、「ツクツクツクオゥーッシ、ツクツクツクオゥーッシ」という表の歌が目立つけれど、その「裏」に「ジィーーーッ」という低い旋律があることに気づく。「ツクツクツクオゥーッシ!」が次第に切羽詰まって終わったあと「ジィィィー……」と余韻を残す、という鳴き方をするけれど、「ジー…」は実際は「ツクツクツク」の段階からすでに流れているのでは、とおもえる。これは昆虫の専門家に聞いてみればすぐ判明することだろうけれど、いま素人が勝手に想像してみると、ツクツクボウシは「ツクツクオゥーッシ」と「ジィー」を鳴らす部分を別個に持っていて、ひとりで2つの楽器を同時に演奏しているのかもしれない。

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 「ツクツク」と「ジーッ」をこのように「分離」してみた。すると、それはハンマーの「カンカンカン」を3つの打撃に「分解」したのとは、すこし似ていて、すこし違うことに気づく。「ツクツク」と「ジーッ」は同時に聞こえてきて、つねにセットで存在している。「カンカンカン」は順に並んでいる。これが違う点。同じ部分は、聞こえてくるものが、複数の音がひとまとまりになっているということ。

 ひとつの音にはひとつの音源が必ず対応する。人間の耳の仕組みは、どうしてもそうなっている。わたしが「ツクツク」と「ジー」はセミの体内の別個の部分から出ているに違いないと推測したのは、この鉄則を応用したからだ。机を手のひらで叩くと、ばちんというか、ドンというのか、ともかく「手のひらで平たい面を叩いたような音」が、必ずひとつの音として現れる。かならずひとつの音しか出ない。箱を叩いて「ポン」という音と「にゃー」という音が同時に聞こえたなら、箱の中にネコがいるのかと気づくことになる。「ぽん」と「にゃー」をかならず別個の音として聞き分けている。聞き分けた以上、そこには別々の音源が存在していたのだ、ということになる。音の存在が先か、音源の存在が先か、ということは微妙な問題であるように思われる。ひとつの音/声が聞こえてくることと、ひとつの存在者がそこに存在しているということは、お互いをオーバーラップしあっている。

 

 木が風に揺られると、葉擦れの音がざわわぁぁ…っと聞こえる。この「ざわわ」は、ひとまとまりの音として聞こえてくる。「風」と「木」のセットがひとつの音源となっている。(ああそうか、別個のものの「組み合わせ」ということが音には必要だ…これはあとで考えよう)

 けれども、自分は風と木の音をひとつの存在として受け取りつつ、一枚ずつの葉が何百枚も擦れあっていることも理解している。ところがその1つずつの「葉のこすれ」を聞き分けることはできない。しかも、「二枚の葉がこすれて出す音」(つまり風の葉擦れの「最小単位」)はいままで一度も聞いたことがない。それなのに、ざわぁぁー…という音は、その最小単位が何百も重なり合って作られた音だと把握している。

 

 

ブレーカーを落とす奥さんを殴るプログラマの話

 「じぶんがパソコンで複雑な作業をしている最中に、たまたま他の家電を使ってブレーカーを落としてしまった奥さんを殴るプログラマ」の話を読んだことがある。読んだのはたぶん20年近くまえのことだけれど、いまも記憶に残っている。

 

 いったいどういう本だったのか、全体像は思い出せない。たしか女性の書き手が友人の家に行ったとき、その友人が電子レンジかなにかを使ってブレーカーを落としてしまった、という筋だった。すると、旦那さんが現れて「せっかく作業をしていたのに、またやったのか」といったことを言って、奥さんを殴った。

 文章の主題は「ほえ〜ブレーカーで使えなくなるとそこまで怒るんだ、PCってよくわからんなぁ」といったことだったとおもう。ようするに殴打のほうは主題ではない。

 

 なにも殴らんでいいのに、と読んでいたときのわたしはぼんやりとおもった。いまも思う。

 そして自宅でブレーカーを落とすたびに、このエピソードを思い出す。

 その後の20年、この「旦那」はブレーカーが落ちるたびになお奥さんを殴り続けたのだろうか。あるいは態度をどこかで切り替えただろうか。UPS買えよと思う。

 

 

ルウム戦役は描いちゃいけなかったんだよ

 THE ORIGIN4部作がAmazon Primeに入っていたので、Iから見始めている。

 冒頭、ルウム戦役のシーンが描かれる。ティアンムの先鋒艦隊の艦砲射撃で一方的に叩かれる囮役のムサイ戦隊。次いでレビルの本隊を襲うモビルスーツたち。マゼラン5隻を叩き落とすシャアと、黒い三連星

 マゼランとサラミスのミサイルや対空機銃、シャアザクのぐりぐりとした動きがCGで美麗に描かれる。迫力がある。

 

 けれど、これは致命的なことではなかったかとおもうのだ。ORIGINはルウム戦役を映像化してしまった。でも、それは大いなる過ちだったのではないか。描き方が不十分だった、ということではない。どのような丁寧な描き方であれ、とりわけ映像でルウムを描くということ自体が宇宙世紀サーガにおける禁忌だったのではないか。ルウムは描いちゃいけないんだ。

 

 なぜなら、ルウム戦役は伝説だからだ。シャアが通常の3倍のスピードで5隻の戦艦を瞬くまに沈め、一個師団の戦力に匹敵する黒い三連星がレビル大将を捕虜とした。シン・マツナガが、ジョニー・ライデンが、ランバ・ラル隊がそこにいた。ジオンの精鋭MS部隊が数倍の戦力比をひっくり返して鈍足の地球連邦艦隊を殲滅し、以後連邦軍は艦隊保全主義を取ってユトランド沖海戦後のドイツ帝国海軍のごとくルナツーに逼塞した。トラファルガー海戦日本海海戦、あるいはカンネーの二重包囲をも超える、戦史上空前絶後の勝利だった。

 それはすぐに作品世界内で伝説となった。だからパウロ艦長は赤い彗星だと知ってすぐに逃げろと叫び、ジーン(いや、スレンダーだっけ?)は「シャア少佐だって手柄を立てて出世したのだから」とガンダムを襲う。宇宙世紀サーガの序盤のひとびとの行動は、大局的にも個人心理においてもルウム伝説への応答によって成立している。そしてこの行動原理≒ジオン軍のMSは雑魚じゃねえという共通認識が、その後のジオン軍の個性的なキャラの魅力と、ガンダムアムロの強さを理解するうえでのベースとなり、アムロとシャアの物語へつながってゆく。

 つまり作品世界内のルウム伝説を視聴者もまたいつのまにか共有している。一年戦争の物語全体がコロニー落としルウム戦役インパクトのうえに成立している。視聴者の想像力もそこに接続する。連邦軍ジオン軍将兵や市民がルウム戦役に対してイメージを持つのと同様に、視聴者もルウム戦役に対して独特のイメージを保つ。そして、そのためには、ルウム戦役が描かれてはならない、ということが必須だったのだ。見たことがないから伝説になる。1stガンダムでも『ギレンの野望』シリーズでも、ルウム戦役の少し後から物語が始まっていた。ルウム戦役コロニー落としを体験していないことが、作中世界の人物と視聴者が共有する蝶番だった。あるいは、視聴者はルウム戦役をシャアやティアンムの立場で想像することができた。想像によって、視聴者はそれらの人物と自身を一体化することができた。想像の中では連邦艦隊を翻弄するエースパイロットになることが許されていた。

 ところが、ルウム戦役を実際に描いてしまうことで、もはや伝説が伝説でなくなってしまう。想像の領域であった場所が、それなりにカッコイイ具体的なCGに置き換えられてしまう。ああ、シャアはなるほどこうやってマゼランを本当に撃破したんだな、と納得させられてしまう。すごいね、まあそんなもんだよね、というかんじになる。伝説からヴェールが剥ぎ取られ、歴史の始点がのっぺりとした実在に転化する。ルウムの死闘の中で誰が何をしていたのかが全て明確になり、後は際限無く細部を書き込んでゆくほかない。それは宇宙世紀サーガを豊かに補強するように見えて、実のところ作品世界全体の脈動をより萎ませる結果にしかならない。ルウム戦役は描いちゃいけなかったんだよ。

 この批判を映像版ORIGINの作り手に向けるとすれば、かれらはルウム戦役というガノタの聖域に踏み込んでしまった、ということかもしれない。一週間戦争を描かないということが、宇宙世紀サーガの作り手に求められるべき一種の「慎み深さ」だった。ガノタルウム戦役を妄想する。妄想する権利は誰にでもある。しかしサーガの公的な描き手となるとき、そのオタク的妄想はいったんスイッチ・オフしなければならなかった。しかし彼らはルウム戦役を(そう長いシーンではないにしろ)映像化してしまった。それは、マニアと創作者の間に引かれるべきラインを踏み越えてしまったということを意味する。ようするにオタクの感覚のままで公的な作品を作ってしまった。*1 それはそれで一つのやり方かもしれないけれど、オタクがオタクのまま作品を作ってしまうと肝心の創造力が根本的なところでどこか欠けてしまうのでは、と思う。そういう意味でもやっぱり、ルウム戦役は描いちゃいけなかったんだよ。

 

 

*1:ちなみに、このラインを踏み越えないギリギリのところでフラフラしながら作品を作れてしまうのが庵野サンだと思う。

エマ・ワトソンが言ったからみんな話を聞いたんだ。

 エマ・ワトソンが言ったからみんな話を聞いたんだ。男性が持つジェンダー・ステレオタイプが女性を抑圧するだけでなくて結局男性自身をも苦しめている、という話はたぶん40年か50年近く前からフェミニストが言ってきた話なのだけれど、たいていの男はそれに耳を貸してこなかった。エマ・ワトソンが言ったから、キモくて金の無いオッサンも、そうでないオッサンも、ちょっと気になって話を聞いたのだ。エマ・ワトソンがそれを言うことが矛盾していようがそうでなかろうが、「男性らしさにとらわれる必要は無い」と初めて聞いて反論している時点で、何周も周回遅れだったのだ。

 

 そしてたぶん、エマ・ワトソンフェミニズムも、「モテなくてもクヨクヨすんな」みたいな文脈で意識改革を説いているのではない。話はもっと単純で、おまえら男の持ってるジェンダー・ステレオタイプが女性を抑圧してんだよ、いい加減気づけよ、ということなのだ。フェミニズムはずっとずっとずっとそれを言ってきた。いくら言っても耳を貸そうとしないので、「実はそのステレオタイプはあなた自身を苦しめているものでもあるのではないですか?」と、説得の仕方をすこし切り替えてくれているのだ。おまえは加害者なのだと言っても無視されるので、「あなたはあなた自身の被害者でもあるのです」と搦手から説得してくれている、ということ。エマ・ワトソンにそれを言ってもらって初めて左耳の鼓膜の半分くらいが反応するのが、オッサンという存在である。

 

 だから、「キモくて金の無いオッサン」を社会的にどうするか、という話にズレこむ時点で、決定的に取り違えてる。もともとは、女性への抑圧をやめろ、というだけの話なのだ。

 

 

人間の腕がシオマネキ風だったら

 ひきつづき、左右のこと。

 もし人間の腕がシオマネキ風であったら、左右を意味する言葉は別のニュアンスを持っていただろうか。シオマネキはカニの一種で、オスは片方のハサミがとても大きくなる。

 たとえば、人間の右腕が男女問わず巨大で、左腕はとても小さかったとする。右腕は大きく、頑丈で力が強く、指が8本あり、器用である。左腕はか細く、指も2本しかない。人間の身体がたまたまそのように進化した、とする。

 そのような世界では、「右」「左」を意味することばと、「大きい」「小さい」を意味することばが重なるかもしれない。たとえば「すごくミギィな建物だなぁ、すごい技術が使われているに違いない」「この本の文字はヒダリィすぎてよく見えないよ」といった表現が使われるのかもしれない。

 けれども、左右と大小が同根の語彙で表現されると困ってしまうような事態もあるかもしれない。ミギィ=大きい、ヒダリィ=小さい、と翻訳できるとする。ケーキ屋さんで右側に小さなケーキが、左側に大きなケーキが置いてあるとする。そうすると、

「ミギィなケーキをください」

「こっちですね、ありがとうございます」

「あ、いえ、右に置いてあるやつじゃなくて、ミギィなやつです」

「失礼しました、右側のヒダリィ・サイズの商品ではなくて、左のミギィな方ですね」

みたいなことが起きるかもしれない。

 つまり左右と大小は、ある程度おなじ次元のなかを動いていることばである。だから上記のような混乱の例が簡単に想定できる。シオマネキ人類世界でも、左右と大小を同じ言葉で表さないかもしれない。

 他方、現実世界の英語のrightという語が持つ「正しい、強い、まっすぐ」という意味と「右」という意味は、あまり重なり合わないことがわかる。会話や文章中にrightという語が登場したとき、それが「正しい」なのか「右」なのかは、ほとんど悩まずに判定できる。「話きいてたけど、右に座ってる奴の言ってることは正しくないと思うよ」と言明する機会もあるかもしれないけれど、上記のケーキ屋の例よりは稀だろう。(新約聖書のどこかで、イエスが、正しい者は天国で俺の右に座るんや、と言っていた気がする。混乱するより先に、正しい奴を右に位置づけようという言語世界なのかもしれない)

 

 

RightとLeftが無い時代

 英語では右をRight、左をLeftと言う。ところでRightには「正しい」「まっすぐな」という意味もある。

 Rightは古い英語ではrihtやrehtと言い、古フリジア語riuchtや古オランダ語rehtなどと同根であるという。さらに語源をたどると「まっすぐに進む」という意味の印欧語にゆきつくという。

 ところでこうしたrihtやrehtといった語の本来の意味は「正しい」「権利がある」「強い」などで、方向としての「右」の意味は後から加わったものらしい。たぶん、右手のことを「正しい方の手」「強い方の手」、左手のことを「間違いの手」「弱い方の手」という感覚で呼ぶといったことがあったのだろう。まず「正しい」「まっすぐな」「強い」という意味の方が先にあって、それを後から方向としての「右」に当てはめた、ということなのだろう(大雑把すぎて間違っているかもしれないけれど)。

 

 人間にとって、「正しい」「悪い」はきわめて大切で根本的なことばである。世界の歴史の中のたぶん全ての言語は「正しい」「悪い」と翻訳できる語彙をそれぞれ持つだろう。他方、「右」「左」も同様に根本的なことばである。右と左ということは、人間の身体に深く根付いている。

 自分は方向としての「左右」が基本で、そこから派生して「正しい」「悪い」の意味が加わったのだと思いこんでいた。つまり(あくまで右利き基準だが)右手=強い・正しい、左手=弱い・間違う、という感覚が先にあって、それゆえ「正しい」ことを「右なこと」と言うようになったのだろう、と。

 ところがどうも英語のright/leftについては語源の関係が逆で、「正しい」の意味が先で、後から「右」を表現するために「正しい」の語を当てはめたということらしい。

 とすると、そのように当てはめる以前は、右と左ということばが彼らには無かった、ということになる。デフォルメ化して言えば、ある時期までは左と右をことばできっちり区別する必要を感じていなかったのが、ある時期からは「こっちの、よくスプーンを持つ方の手を「正しい方の手」と呼ぶことにしよう」という語感が成立した。

 もちろん左右をそのように呼ぶようになる以前も、かれらに右と左の感覚そのものはあっただろう。右側にあるものを手に取るときは右手を使うし、左目が痒ければ左目を掻いた。ただ、その「2つの方向」に特別な語を充てる必要性は持っていなかった。

 現代ではそれは不可能である。たとえば電話口やメールで道案内をするとき、「◯◯駅の2番出口を出て、すぐ右に曲がってから30メートルほど歩きますと左手に弊社の看板が見えるはずです」と言う。「左右」の意味の共有無しにこれを説明することは難しい(東西南北で示すという手段はあるけれど)。けれどこれは、「直接顔を合わせていない相手に自分の所在地を伝達する」という、きわめて複雑な社会における必要性である。より古い、コンパクトな社会では、左右という言葉の共有はそこまで必要とされないかもしれない。道案内したければ「ああ、あっちのほうだよ」と指差せばわかる。あるいは直接ついて行って教えてあげるのかもしれない。

 きちんとした言語学や語源学からするとテキトウな考えに映るかもしれないけれど、とりあえず、そういう想像をした。