しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

2才児「こえわー?」ラッシュ

2才の甥が「はたらくくるま」の本をひらく。警察、消防、工事用車両などなどがページごとに載っている。載っている車をひとつずつ指差して、「こえわー?」と聞く。「これは、『コンクリートミキサー車』」と妹(2才児の母)が答えてゆく。

 

全ての車について「こえわー?」と聞く。

「こえわー?」「これは、みきさーしゃ」

「こえわー?」「これは、こうしょさぎょうしゃ」

「こえわー?」「これは、きゅうきゅうしゃ」

「こえわー?」「これは、すーぱーあんびゅらんす」

「こえわー?」「これは、かがくしょうぼうしゃ」

「こえわー?」「これは、ぽんぷしゃ」

 

全ての車について聞く。全ページ聞く。聞き終わったらまた最初に戻る。

かれは何をしたいのか。知らない車の名前を新たに知りたいのではないことは、たまに「ちゃう」(ちがう)と応答することからわかる。

 

「こえわー?」「これは、みきさーしゃ」

「こえわー?」「これは、こうしょさぎょうしゃ」

「こえわー?」「これは、きゅうきゅうしゃ」

「こえわー?」「これは、すーぱーあんびゅらんす」←ここらへんで妹の集中力がすでに切れている

「こえわー?」「これは、かがくしょうぼうしゃ」

「こえわー?」「これは、ぽんぷしゃ」

「ちゃう」「あ、ほんまや、これは『はしごしゃ』や」

 

 ここらへんで、知っとるんやったら聞かんでもええやんけ、と周囲の大人から一斉にツッコミが入る。

 

 このやりとりを見ていると、甥にとって「こえわー?」は必ずしも未知を既知に変化させる質問では無いように思える。知っているものでも、知らないものでも、とりあえず「こえわー?」と聞く。大人から毎回答えが返ってくる。とにかくそのやりとりが大事なようである。

 

 大人の場合、既知と未知の区別は非常に重要である。既知のものを問い直すことはエネルギーの無駄であり、未知のものは早急に把握するか、無視する。自分が未知のものをすでに知っている人には教えを請い、その逆ならば自分が優位に立つ。あるいは知識を共有する協力関係が生まれる。

 大人が既知のものを敢えて問うとしたら、相手にとってこれが既知であるかどうかを確かめる、相手をおちょくる、哲学者である、といった場合に限られる。

 

 甥はこのどの場合にもあてはまらない。そもそも、既知と未知を区別してゆくことにさほど重要性が無いのだろう。むしろ、そのつどそのつど、それになまえがある、ということこそが大切で、喜びなのだろう。

 

「間」を獲得する甥(2歳)

10日ぶりに甥とその母(わたしの妹)と会うと、以前と違って会話に「間」ができていて、びっくりした。

 

具体的には、甥が妹に何か言ったあと、彼女の返答をうまく待つようになっていた。そのため、両者とも声を出していない時間が生まれている。客観的には0.2秒くらいの時間だろうか。

 

格段に人間的な話し方というか、会話のような会話になっていた。

 

なぜ甥は間を獲得したのか。何が起きているのか。じぶんが言った内容が母親の頭の中をぐるりと周回して返答が彼女の口から出てくることをわかっている、ということなんだろう。それだけ甥の言うことが複雑になってきたということなのだけれど、それだけではない。返答を待つことができるということを裏返すと、相手には「あたまのなか」「こころのなか」があるということをぼんやりと理解しはじめた、ということではないか。

 

たぶん、甥の視点では、声とは相手の顔にぶつかって割れるものだったのだろう。それがいつのまにか、声とは相手の顔のおもてからどこかにすっと吸い込まれてゆくものになった。その「どこか」をのちに心とか頭とか言うようになる。そして自分の声が吸い込まれてゆくどこかは、相手の声がそこから出てくる場所でもある。相手の声は自分のどこかに吸い込まれている。そしてなぜか自分の声も同じ場所から外に出てゆく。内と外の区別が生まれる。

Ciniiは研究者を幸福にしたか

 CiniiとAmazonが無い時代、院生や研究者はどうやって研究をしていたのだろう、と思う。

 Ciniiは日本語論文の総合検索サイト。日本国内では、ほかにJ-STAGEや医中誌WEBやメディカルオンラインといった論文関連のサイトがある。海外にもまたいろいろある。分野によって多少異なるかもしれないけど、自分はCinii無しの研究活動など考えられない。

 文系の自分にとって、Amazonも重要な研究インフラのひとつ。とくに震災関連は古い手記などがマケプレで安価で手に入るのがありがたい。

 

 大学の附属図書館の論文複写サービスもよく利用させてもらっている。Cinii等で論文の掲載誌を把握したあと、大学のOPACにつなげて、当該誌が学内にあるか調べる。豊中キャンパスの総合図書館にあればそのまま自分でコピーしに行くけれど、吹田キャンパスの図書館や、学外にしかない場合は、複写サービスを申し込む。実費(おおむね50〜500円)はかかるけれど、数日で論文のコピーが手に入る。こちらの手続きは窓口での支払い以外ブラウザ上完結する。

 こうして手に入った論文の情報やPDFは、Mendelayなどの論文管理ソフトにまとめる。

 

 分野や個人のスタイルによって多少の差異はあれ、現代の研究者にとって、これらの電子的リソースを使いこなすことが基礎スキルのひとつになっている。

 

 こうしたツールやリソースの普及によって何が変化したのか。それ以前の事情を知らないのだけれど、論文や書籍を入手する速度が飛躍的に向上したことは確かだろう。論文検索サイトでキーワードを打ち込む、めぼしいものをリストアップする、機関リポジトリにPDFがあればその場で管理ソフトに登録して、画面上で論文を読むorプリンタで印刷する。検索語の打ち込みからプリントアウトまで、最短で5分かからない。(よく知らない海外の雑誌とかの場合、ずるずる泥沼化することもあるが、それでもオンラインで解決する事例が十分おおい)。

 

 調達速度の向上によって、単位時間あたりに入手できる論文の数も増える。Ciniiは研究者をパワフルにした。

 ただ、それによって「良い研究」がどんどんできるようになったのか、研究者が幸福になったのかは、なかなかわからない気がする。

 昔は1日に1本の論文を確保するのが限界だったのが、1日に10本の論文を手元に集めることができるようになったとする。ただ、それを読む速度、咀嚼する速度、考える速度も10倍になるわけではない。

 論文を集めるのにかかっていた無駄な時間が省かれるのだから、考える時間もその分伸びるはずという考え方もできる。のだけれど、そんなに単純にゆくだろうか、ともおもう。のったりもったり、文献を探して図書館をさまよっているうちに、少しずつ考えが熟成してゆくという部分もある。アナログ礼賛のつもりはないのだけど。

 

 どれだけ多くの論文を把握してどれだけ上質の論文をどれだけたくさん書けるかが、現代の研究者同士の競争のひとつになっている。この仕組み自体は、必ずしも現代特有というわけではないだろう。ただ、「読んで考える」という根本的な部分の性能はおそらく向上していないのに、入力の量だけがどんどん増加しているのは、恐ろしい。胃のサイズは変わらないのに、お皿の数が飛躍的に増えている。

丁々発止母子

実家に帰ると、妹と甥がいた。

甥は2歳を過ぎて、「いや!」をよく言うようになっていた。

 

お風呂に入る、いや!!

おしめ換える、いや!!

 

母親(妹)とかれの様子を見ていたが、この「いや」に対する即座の応答のキレが、すごい。祖母も「いや」に対応するのだけれど、どことなく間延びがある。言わば振り遅れている。これに対して、母親は154キロの直球を完璧に振り抜いて打ち返している。

(ただし育児においては、打球を捕球して送球するのも母親の役割で、その間に甥はダブルプレーをすり抜けて相手ゴールへ果敢にドリブルを開始し、妹は審判になってオフサイドを取ろうとするが、甥はそこから切り返して華麗なるスリーポイントシュートを狙い、その球をレシーブした妹があげたトスで甥はスパイクを放つが、妹の出すレッドカードをもらってしゅんとした甥はいつのまにか表彰台でうとうとしている。)

 

文字で書きにくいのだけれど、「いや」への「じゃあ、こうね」の応答のタイミングがある。独特のタイミング、間髪入れず、早すぎも遅すぎもしない。考えている暇はなく、それでいて正しい。

樹木に「いま」はあるか

キャンパスの落葉樹の枝があらかた裸になって、尖った枝先を見るともう小さな芽が付いている。このまま春までじっと待機していて、そのときが来たら一斉に芽吹く。堅く詰められた火薬みたいだなと思う。その姿勢のまま春の発芽のときを今か今かと待っているように思える。野茂が腰をぎゅううとひねってエネルギーを溜め込んでるのを思い出す。


「今か今かと待っている」と勝手に書いたけれど、樹木に「いま」はあるのだろうか。


比較のために、人間にとって「いま」とは何であるかをいくつか考えてみる。

まず丁々発止の「いま」がある。相手の出方に即座に応じて体や眼が反応してしまう「いま」。

人間を含めた動物はだいたいこの「いま」が得意である。一方、樹木はもっとゆっくりしら時間を生きているように思える。石が飛んで来たからといって、木が幹をとっさによじって避けるということはない。

けれど近年の研究で明らかにされたところによると、葉が害虫に食べられているときなどに樹木は非常に複雑な化学物質を出して周囲の樹木に知らせているそうだ。この物質はかなり即座に出るのだろう。人間の眼にはみえないけれど、樹木も周辺環境に鋭敏に応答していて、樹木なりの「丁々発止」を持っておるのかもしれない。


過去や未来と連関した「いま」もある。昔はこうだったが今はこうだ、と言うときの「いま」である。樹木が昔のことを思い起こすことは無いかもしれない。犬にも難しいだろう。犬は以前の物事の記憶を持つことができるけれど、「過去と今」というパースペクティブは持たないだろう。

樹木の場合、幹や枝の姿そのものが過去の歴史を表している。「顔は男の履歴書」と俗に言うが、枝ぶりは樹木の履歴書である。木にとって過去とはいまの枝のすがたであり、過去は想起するものでなく現在進行形で葉を支える「すがた」である。今と過去が同じである。人間のような、過去と未来から余剰の意識として切りだされた「いま」ではない。


待っていて到来する「いま」もある。「…いまだ!」の「いま」である。樹木が芽吹くときも、ぎりぎりまで待っていて、ついに「いま」の瞬間が来る。この「いま」は人間も樹木もある程度共通しているかもしれない。


人間の「いま」はさまざまな幅を持つ。極限まで切り詰められた瞬間としての「いま」がある。エースコンバット04の「ストーンヘンジ……着弾、いま!」の「いま」である。一方、どことなく間延びした「いま」がある。「いまひまー? ちょっといい?」「うん、いまならいいよー」の「いま」は、客観的な時間としては10分とか30分とかを指すだろう。

樹木はこのいずれを持つだろうか。両方を持つかもしれないけれど、樹木自身はそれを「いま」ということばで表現することはなさそうだ。

身と身体

 身体の現象学、という哲学のテーマがある。

 「真理」や「存在」や「永遠」といった抽象的な概念について考えるのが哲学だと思われがちだけれど、もっと身近で、しかも身近であることがわかっていない出来事、つまりこの「身体」がわたしたちにとってどう現れているのかを分析しようというテーマである(はず)。

 

 「身体」は生きている者は誰もが「持っている」ものであって、当たり前に当たり前すぎる何かであるけれど、それだけにこれを掴むのは簡単ではない。だから、「身体の現象学」をやり遂げるようなひとはとてもセンスがあるというイメージがなんとなくあって、少なくとも自分にはさっぱりわからない。

 

 ただ思うのは、「身体の現象学」はあっても、「身(み)」については意外と論じられることが少ないなぁ、ということである。「身につまされる」「身から出たサビ」と言うときの「身」である。

 日本語話者にとって「身」はあまりに自明なイメージであるけれど、これを説明することはなかなか難しい。「身体」と「身」を比較すると、身体の方がいくぶん客観的、物理的というか、どことなくよそよそしいかんじがする。身体はいまだ一般的、普遍的なのに対して、身はさらに一人称のパースペクティブにへばりついている。

 身は身体よりもさらに身近(みぢか)なのだ。

 

 「身の現象学」「身の哲学」をやればいいのに、とおもう。

 身とは何か。身は身体だけれど、さらに心にも深く混ぜ込まれ合った存在でもある。「身につまされる」「身にしみる」「身をまもる」と言うときの「身」は、ただ皮膚と血と内臓と骨と脳から成る身体よりもさらに大切でどうしようもないものである。

 「身に覚えが無い」は「記憶にない」とも翻訳しうるけれど、何かもっとその人の人生そのものに結びついた表明でもある。これを「身体的記憶」などと呼称してしまうと、元の意味が全く失われてしまう。「身の毛もよだつ」はオットーのヌミノーゼにどこかつながっていて、これを「身体」と「精神」から説明しようとするとかえって面倒である。

 

 「身を滅ぼす」「身を挺する」という、やや形式的な表現もある。この場合の「身」は目に見える身体よりもむしろ、「身分」の意味合いが強い。「身の程を知る」は身長を測定することでなく、自身の立場や能力の自覚を得ることである。「身を立てる」とは自分で仕事をして人生を切り開いてゆくことであるけれど、「身を入れる」「身を粉にする」というように、そのまま実際に労働して疲れ果てる「身」でもある。

 

 「身をもって知る」は社会的身分と物理的身体の両方にまたがった「身」であるかもしれない。しかし、「〈身〉とは社会的存在と物理的存在を合わせた概念である」という説明をするなら、それはむしろ逆なのだとおもう。まず通り過ぎているのは「身」で、それを把握するために「身体」や「社会」といった概念を後から貼り合わせて探っているのではないか。

 

 「身」はまたおそらく「実」でもあって、ずっしりみっちりと中身があるもの、放置していると腐るもの、力の発現の起点や対象となるものである。

 

 なんかこーゆーことを、たまに考えたりする。

 

初代ウルトラマン第三話感想

初代『ウルトラマン』を見ていた。第三話「科特隊出撃せよ」で、電気を吸うネロンガという怪獣が出てきて発電所に現れるのだが、自分のエネルギー源のはずの電気を生産してくれている発電所を破壊していた。ネロンガ水力発電所を壊したあと別の火力発電所に出現し、この火力発電所は「関東の電力の6割を生産しているから絶対防衛せねば」ということで科特隊や防衛軍の人たちは頑張るのだけれど通常兵器はほとんど効かず、火力発電所ネロンガに完全に破壊されてしまう。発電所が破壊されきるのをその場で見届けてからウルトラマンに変身してわりとあっさりネロンガを抹殺したハヤタ隊員は東電及び電化生活を享受していた関東地方住民に何か恨みでもあったのか。