しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「覚え」と「記憶」

 「そういえば以前ここに来たときは、バスがなかなか来なくて寒かった覚えがあるなぁ」などと言うことがある。

 この場合の「覚え」は「記憶」と言い換えることもできる。

 

 では、「覚え」と「記憶」は同じ現象だろうか。「覚え」は何かを覚えていること、その内容である。「記憶」も同様で、心の内部に想起されるべきものが格納されていること、その中身のことである。このように解釈すると、覚え=記憶である。

 

 ところが、「覚える」と「記憶する」は微妙に違う。

 単語テストの前日にノートを何度も見て「よし、覚えた」というときの「覚えた」は「記憶した」とほぼ同じである。しかし、「地下鉄駅までの行き方を覚えた」というときは「習得した」に近い。「道順を記憶した」と強いて言い換えることもできるけれど、「行き方を覚える」とか「顔を覚える」といったことは、英単語を暗記するようにただデータを心に埋め込むのとは、やや違う。「覚える」は、脳や心の範囲のみで完結するのではなくて、どこか身体の姿勢を伴った行為であるような気がする。

 

 心の動きや脳の働きといった観点ではなく、ことばの語感という点ではどうだろうか。

 「ええ、あの方のことはよく覚えていますよ」は、なんとなくその人に対して親しみを帯びているかんじがする。これが「あの方のことについてはよく記憶しています」だと、どことなくよそよそしくもある。さらに、「あの方のことはよく覚えています」の場合、ただ名前や職業や性格についての情報を所有しているというだけでなく、その人と過去に一定の交際があったというニュアンスがある。

 「それは身に覚えがありませんなぁ」も、どことなくやわらかい。「記憶にございません」だと証人喚問である。「物覚えが悪い」と「記憶力が悪い」、他人に言うとどちらも失礼だけれど、後者のほうがよりずけずけしたかんじがある。

 「うろ覚え」を「うろ記憶」と言い換えることはできない。「記憶が曖昧だ」だろうか。取り調べを受ける被疑者のようになる。

 

 「覚え」は「覚える」と直結している。「覚える」はさまざまなニュアンスを含んでいる。さらに、日本語話者は意識していないけれど、他のことばとも根っこで絡み合っている。「うろ覚え」の「うろ」は「うろつく」「うろたえる」「うろうろする」の「うろ」と共通したイメージを持っている。漢字では「覚える」と「覚める」がつながる。「覚え」と「忘れ」は常に対義語になるわけではないが、「もの覚え」と「もの忘れ」の「もの」は同じ「もの」である。

 あるいはまた、「覚えている」と「思い出す」は、「記憶」という点では共通していそうだけれど、この2つが同じかというと、かなり違うかんじがする。具体的に脳や心の内部でどんな違いがあるのか説明しきれないけれど、使い分けができてしまう。「思う」「思い出す」にもさまざまな広がりがあって、「覚える」と生活言語上の役割分担をしている。

 

 「覚え(る)」ということばのニュアンスが複雑な広がりを持っていることに比べると、「記憶」という語はかなり孤立している。おそらくこの語は明治時代にmemoryの翻訳語として造られたのだろう。したがって、「記憶」と「うろ覚え」はいまひとつしっくりつながらないけれども、「記憶」と「認知」「忘却」「想起」「把握」「理解」「推論」「情報」はひとつの仲良しグループをつくる。いずれも西洋の翻訳語であり、学術用語だからだ。

 

 そして、これら一連の二字熟語用語をもっぱら使ってあれこれ論じてきたのが、明治以降の日本の哲学と心理学だ、ということになる。長くなったのでいったん切ります。

ゼットン戦とゼルエル戦

 たまたまYoutube初代ウルトラマンゼットン戦の動画を観ると、『エヴァンゲリオン』のゼルエル戦となんかそっくりやなぁ、と思った。

 

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 ゼットンウルトラマン最強の敵とされる。作中でウルトラマンゼットンの高い攻防能力に翻弄され、最後には負けてしまう。

 ゼルエルは『エヴァンゲリオン』に登場する最強の使徒である。ネルフ本部に侵入し、弐号機、零号機を瞬殺し、初号機も一時行動不能に追い込む。

 

 この、エヴァがあっさりと討ち果たされてゆく流れ、その後地下の司令室からミサトさんたちが外に出て初号機を見るシーンなどが、ウルトラマンが倒され、科学特捜隊の面々が破壊された本部から脱出してウルトラマンに呼びかけるシーンとだいたい相似形である(ように見える)。

 

 エヴァンゲリオンウルトラマンである、などというのは散々語られ尽くしていることらしく、上記のシーンもマニアの間では常識のようなことかもしれない。ただ、自分でたまたま見て、やっぱ似てるねんなーと思った。

 

 両者の違いの方が面白い点かもしれない。

 『ウルトラマン』では、ゼットンは博士の取り出した新型爆弾であっさり撃破されてしまう(最初からそれを使っておけばよかったのでは…)。「科学のチカラ」への無垢な信頼。一方『エヴァンゲリオン』では、人間の「科学力」をはるかに越えたものとして使徒や汎用人型決戦兵器が登場する。

 

 もうひとつの違いは、超人と人間の関係である。

 『ウルトラマン』では上記動画のシーンの後、ウルトラマンの上司ゾフィーさんが現れ、ウルトラマンを復活させる。このとき、ゾフィーウルトラマンとハヤタ隊員にそれぞれ別個の命を授け、ウルトラマンとハヤタ隊員は別々の存在に分離する。それ以前は、ハヤタ隊員とウルトラマンは一つの命を共有しているような状態だった。融合していた「ハヤタ=ウルトラマン」が、いちど死んでから別々の命となった。

 他方、『エヴァンゲリオン』ではゼルエル戦のクライマックスで初号機とシンジ君はシンクロ率400%に達し、両者は融合してしまう。ウルトラマン/ハヤタ隊員とちょうど逆のコースをたどるわけである。そして初号機=シンジ君は死なない。新劇場版の『破』から『Q』への流れでは、シンジ君もアスカも老いから切り離され、軌道上に封印されていたりする。登場人物たちは死のタイミングをおおかた失っている。

鏡を見なければできないこと

 鏡を見ながらハサミを鼻の穴に入れて鼻毛を切ろうとすると、奇妙な難しさがあった。ということを先日書いた。

 そのなかで、鏡を見なければできない作業が意外と無い、ということを書いた。

 

 ここで書いた「作業」とは、日常の作業のなかで、とくに手を使ってあれこれするようなことを想定していた。鏡を見て顔や表情をチェックするとか、服が似合うかどうか見てみる、ということはさしあたり含まない。

 

 あらためて考え直してみると、自分で髭を剃ること、化粧をすることは、鏡が特に必要だなと思い当たった。化粧はしたことがないので、髭を剃ることに限定して考えてみる。

 

 電気シェーバーでない、ふつうのヒゲソリで髭を剃るとき、鏡がどうしても必要である(無くても不可能ではないけれど…)。利き手の右手でヒゲソリを持ち、左手の指先も顔に当てている。左手の指先は、髭の生えているちくちくしたところを探索して確かめている。ヒゲソリはそのロックオンに従って刃を肌に当てる。このとき右手はあまり迷っていない。ところどころ、ヒゲソリを指揮棒のように持ったり、鉛筆のように持ったりする。左手によるガイドと、右手の運びが慎重に連動している。刃が滑ると肌が切れるし、唇は避けなければいけない。唇の下側の少しへこんだところや、鼻の下の膨らみや、顎の首に近い柔らかい部分。すべて馴染みの肌の立体だけれど、それはヒゲソリの動きの慎重さとあいまった「馴染み」の感覚である。触る指先、刃先の感覚と、触られる顔の肌の感覚がカチッとはまりあっている。

 ところがこれらには「鏡を見ながら」ということが必要である。指先で確実に触れ確かめているのに、視野がその確実さを深めなくてはならない。

 

 たとえばポケットの中に入っているパチンコ玉を指先で確かめるとき、それを改めてポケットから取り出して目で確かめる必要なない。とりわけ、ポケットにパチンコ玉が入っていると以前から知っている場合には。

 ところがヒゲソリの場合には、左手の指先、右手の刃先や持ち方、肌の感覚に合わせて、さらに、それらの様子が鏡で表されているということが必要である。

 

 じゃあ一方、鼻毛を切るのはなぜ、どう難しいのか、ということがやはりわからなくなる。

 

 余談だが、迫水久常『機関銃下の首相官邸』には、東京裁判のため収監中の東条英機が「自分は鏡無しでも髭をきちんと剃れる」と威張って、迫水が「おまえはそういうところがあかんねん」とぼんやり呆れるシーンがある。

鏡を見て鼻毛を切りづらい

 鼻毛が伸び出しているので、鏡を見ながらハサミの先を鼻の穴に差し入れて鼻毛を切ろうとすると、すごくむずかしい。

 

 ハサミを右手に持って、左手に持った紙を切る。これは難しくない。

 ハサミを右手に持って、左手の手の甲の産毛を切る。これも、刃が肌にひんやり触れてそわそわするけれど、そう難しくはない。

 

 ところが鏡を見ながら鼻毛を切ろうとすると、うまくゆかぬ。

 目の前にたしかに鼻とハサミは見えている。ところが、尖った刃先でケガをしないように、そろりそろり刃先を進めてゆくとき、見えているものがわたしの動きをガイドしてくれない。

 

 理由はいろいろと考えることができる。認知心理学などの分野になるのであろうか。

 いまはその理由を確定したいのではなくて、書きたいのはただ、鏡を見ながら鼻毛を切ろうとしたときの、あのふしぎな〈上手く行かなさ〉の中身、「あら?あれ?」という、あのかんじである。

 

 スムーズにできると思っていたのに、なにかだまされているような気分になる。そもそもなぜできると思ったのかも謎である。そして、少しずつ試すとちゃんと鼻毛を切れるのに、「ちゃんと」という実感がついてこない。

 

 この〈上手く行かなさ〉は、ごぼうや山芋の皮を包丁で剥こうとしたときの〈上手く行かなさ〉とは、どこか質がちがう。後者の〈上手く行かなさ〉は、その工程が不慣れなゆえにあれこれうまくいかないかんじであるけれど、その感覚自体はどことなく馴染みのものでもある。初めてトライしたときに困るけれども、その困り具合は実は「基本的な困り方レパートリー」の中にもとから含まれている。初めての失敗なのにいつもの失敗であるという、ちょっと矛盾したことが起きている。そういうレパートリーを実は人間は持っている、ということになるだろうか。

 

 これに対して、鼻毛を鏡を見て切ろうとしたときの上手く行かなさは、どこか慣れようのない上手く行かなさである。いやあるいは、なんでも鏡の前で試す癖をつければ、その馴れ無さも慣れてゆくだろうか。とはいえ、鏡を見なければできないような行為がほとんど思い当たらない。

大学校舎の災害避難訓練がけっこう無意味っぽかった(らしい)

 きのう研究室にゆくと、いまちょうど避難訓練が終わったところ、と教えられた。

 文学研究科が入っている校舎(法学研究科、経済学研究科も同居)の避難訓練だったらしい。

 

 避難訓練の手順を聞くと、かなり無意味な…というのは言い過ぎかもしれないけれど、さっぱりした「訓練」だったらしい。

 訓練はおおむね次のような流れだった(会話から再構成)

1.館内アナウンスが鳴り、避難訓練開始が告げられる。

2.館内アナウンスで、「2階北西の給湯室から出火」(との想定)が告げられる。

3.「フロア長」というこれまで聞いたことのない役職の人が先導し、1階、2階、3階、4階、の順に校舎内の人間を外に避難させる。

4.避難した教職員学生は校舎外に30分ほど留め置かれて、訓練終了。みな部屋に戻る。

 

 自分が実際にこの訓練に参加したわけではないけれども、聞く限り、これではかなり訓練の意味が無いのでは、と思う。

 

 参加させられた友人の院生がいちばん強調していたのは、「”北西の給湯室”ってどこ?」ということだった。ふだん校舎を方角で意識することはない。北西と言われてもピンと来ない。経済学研究科の方で、と言われたほうがまだマシ。

 2階で出火しているのに、3階や4階の人間が他の階の避難を待つという想定も異常だ。ビル火災時に建物内の人間がどう行動するかは災害心理学の古典的なテーマで、半世紀以上前から研究されている。

 

 最大の問題は、避難マニュアルが上手く機能するように避難訓練の手順とアクシデント発生を見積もっていることだ。「今日の訓練では2階の給湯室から出火することになっていますからね」とみんなで打ち合わせてから訓練開始するようでは、全く意味が無い。

 

 最も良いのは、避難マニュアルを実施するチームと、アクシデントを発生させるチームとを完全に分離させることである。アクシデント生成チームは、どんな事件が起きるかは秘密にしておく。そして避難訓練が始まったら、給湯室から出火、2階でA先生が本棚の下敷きに、4階に車椅子の来客者がいる(エレベーターは使えないぞ!)などと、事件発生を告げる。停電しているので館内放送も使えない。

 わたしがアクシデント生成チームにいたら、真っ先に「フロア長役の人は当日出張で不在、マニュアルでは代役になるべきだった職員Aさんが倒れてきた機材で大怪我」と告げるだろう。

 

 おおげさなようだけれど、このような工夫をしないと、「シャンシャン訓練」にしかならない。守りたいのはマニュアルなのか、命なのか。

 

 もうひとつ書き加えておくと、学生の帰宅困難についても想定してほしいと思う。豊中キャンパス内で火災が起きたり死傷者が発生するような直下型地震災害が発生したなら、周囲の住宅地はさらに被害が拡大している。豊中、箕面、池田で火災・生き埋めが同時発生し、当然阪急宝塚線も停止する。

 昨日の避難訓練では、なんとなく校舎外に30分ほど滞在したあと、訓練終了が告げられてみな研究室に戻ったという。しかし大災害では「はい、これで終了」はそんなに早く訪れない。校舎からの避難が完了したとして、それからどうするのか。石橋や刀根山方面から火災の黒煙が立ち上っているのが見えたとき、学生を下宿に帰らせるのか、神戸や京都の実家から通学している学生はどうするのか。いったんキャンパス内に留めるとすれば、どこでどうするのか。迷っているうちに、石橋商店街の火災から逃げてきた近隣住民が待兼山に登ってくる。工学部で再び火災発生、しかし正門の石柱が倒壊して消防車が入ってこれない(そしてモノレール柴原駅が崩落して中国自動車が寸断、豊中病院は戦場に…)。ここまで想像して、訓練を考えてほしい。

なぜソシエはターンエーのラストでロランにキスをしたのか

 アマゾンのプライムビデオで『ターンエーガンダム』が公開されていた。もう何度目かわからないけれど、劇場版(地球光/月光蝶)を通して見た。

 好きなシーンがたくさんある映画だけれど、物語の最後もそのひとつだ。戦争が終わり、ひとびとはまた平和な生活に戻ってゆく。後半で悪役っぽい立ち回りを演じたグエンの表情も悪くない。パン屋も記者も繁盛だ。

 そうした群像のなかで、ソシエお嬢様だけは少し表情が暗い。雪の中、突然ロランとキスをする。何やら別れのシーンのようでもある。そのあと、ソシエは大声をあげながら自転車で山道を駆け下り、ロランの金魚のおもちゃを川に投げ入れる。

 

 昔から、このキスの意味がよくわからなかった。なぜ二人は最後の最後でキスをして別れたのか。

 

 二人にもお互い淡い恋心のようなものがあったのかもしれない。深入りすることなくお別れのキスだけして、ソシエはロランのことを吹っ切る。「わー」とか自転車で叫んで。とりあえずこのような解釈を与えていたけれど、なんとなくしっくりこないものがあった。

 

 ところが、劇場版を見終わったあとテレビ版を最初から見始めていると、このキスのシーンに別の見方ができるなと気づいた。具体的に気づいたのは、ラストでソシエが自転車で駆け下りるのと、TV版第2話でロランが成人式の朝にハイテンションになって駆け下りるのが相似形を成している、という点である。

 

 第2話で、ロランは一晩眠らずに鉱山の山肌でひとりで過ごし、夜明けの太陽を見る。「きょうは僕の成人式だー(^o^)」と叫びながら自転車で山道を駆け下りる。ところがその成人式の最中に物語が大きく動き始めるのは周知の通りである。

 そこから目まぐるしく歴史が過去と未来の双方向に遡行し、黒歴史だの月光蝶だの大騒ぎして、やっと平和が戻った。そしてソシエはロランとキスをして、かれが成人式の朝に駆け下りたのと同じ坂道をひとりで駆け下りる。それは、彼女なりの成人式の終え方だったのではあるまいか。

 

 別の言い方をすると、ロランとソシエは、成人式を終えきっていなかったのだ。

 

 たしかにホワイトドールの前で聖痕を付ける儀式はいちおう終えている。けれどもそれは成人式の前半部分までで、そのあとお祭りが夜通し行われるはずだった。それは大人の仲間入りをしたうえでのどんちゃん騒ぎである。この夜通しのお祭りまで含めて、成人式なのだ。大人になったのだから、お祭りでは酒や煙草も許されたかもしれない。広い意味では、義務や責任、また権利や自由が生じる。恋をすること、性愛を理解し家族を持つことも許される。

 

 ところが、ロランに聖痕を付けてもらった直後にディアナ・カウンターとミリシャの戦闘が始まってしまった。この後の展開をソシエお嬢様視点で追ってゆくと相当ヒドイ。家へ戻ると父は死んでいるし、お母様は気が触れるし、月から降りてきた女王様はお姉さまそっくりで、お父さんの仇を取るんでしょと煽られてカプルに乗ってるとギャバン大尉に求婚されちゃうけれどかれは核爆発で死んでしまい、なんとなく月まで行って帰ってくると月光蝶だとか黒歴史だとか闘争本能だとか、休む暇も無い。コレン軍曹の死に様を目撃すると繭から逃げてきたロランが手の中に戻ってきた。ううむソシエはほんとうによくがんばったなぁ。

 

 で、この間ずっと、二人の成人式はサスペンドしてしまっている。子どもと大人の微妙な中間状態で戦争についてゆくしかなかった。戦争が終わってようやく、キスをして金魚のおもちゃを投げ捨てて、二人の成人式は完結したのだ。聖痕の儀式の最中、ロランが「(金魚のおもちゃを持ち歩くのは)今夜で最後ですから」とソシエに言うのと、ソシエが最後に金魚のおもちゃを捨てるのはきれいに対応している。ソシエがその前後で泣いたり叫んだりしているのは、もうちょっとすんなり大人になりたかったぜ、ディアナ様とかグエン様とかまーいろいろ事情があったのはわかるけどメチャクチャにしやがって、という孤独な抗議の意味もあったのではないか。

 

 この見方をするなら、ソシエはもともと成人式の後半でロランとちゅーぐらいしてもよかろうよ、ぐらいの気持ちはあったのかもしれない。そこらへんの心理を拝察するのはやめておくけれど、そうして大人になったソシエがこれから何をしてゆくのかが全く語られないままなのは、とても気味が良い。サスペンドの期間中にロランが見出した答えは「ひとが、安心して眠るために」(ギンガナム御大将との最終決戦直前のセリフ)だった。ソシエが延長された成人式=戦争中に見出したこと、学んだことが具体的に描かれないのは、視聴者自身がその答えを代わりに引き受けよということなのかもしれない。その点では、ソシエは影の主人公だったのかもしれない。

 

 

逆再生昔話

 ツイッターで、「桃太郎」の絵本を逆から読むと面白かった、という話があった。

 他の昔話・童話ではどうなるか、試してみた。

 

1. 逆再生・浦島太郎

 ある見知らぬ村におじいさんが迷い込んでいた。おじいさんの身体にまとわりついていた煙が箱に吸い込まれてゆき、蓋を閉めるとおじいさんは若返っていた。

 海岸に亀が待っていて、かれの背に乗って海底にゆく。乙姫様のお出迎えを受け、箱を渡してあげるとこれは玉手箱というものですと教えられる。鯛やヒラメの舞い踊りがあり、乙姫様ともイチャコラする。

 しばらく楽しんだので、また海亀の背に乗って浜辺へ戻る。子どもたちが集まってきて海亀をいじめ始めたが、そのまま見捨てて浦島太郎は村へ帰ったのでした。めでたしめでたし。

 

2. 逆再生・七匹の子ヤギ

 井戸の底で死んでいた狼が蘇生し、地上へ這い上がってくる。お腹がたいへん重たいので、近くにあった家に侵入し、ベッドで眠る。お母さんヤギが現れ、狼のお腹を裂いて彼の胃の中にあった石を取り除き、かわりに自分の子どもたちを詰め込み、縫い合わせる。

 狼は順に子ヤギを吐き出し、ベッドの下や戸棚の中に隠してあげる。狼は去り、お母さんヤギが帰宅する。めでたしめでたし。

 

3. 逆再生・金の斧銀の斧

 嘘つき木こりが、手ぶらで魔法の池に行く。池の女神が現れる。木こりが嘘をつくと、女神は手ぶらの木こりに鉄の斧を渡す。

 正直者の木こりが、自分の金の斧、銀の斧を持って池にゆく。池の女神が現れる。木こりが正直に女神の問いに答えると、金の斧と銀の斧を没収される。女神が沈んだあと、思い出したように鉄の斧を水面下から投げてよこす。正直者の木こりは鉄の斧を持って帰宅しましたとさ。めでたしめでたし。

 

4. 逆再生・竹取物語

 天皇が富士山で薬を焚く。その狼煙を合図に、月からの軍団がかぐや姫を護送して地上に舞い降り、かぐや姫はおじいさんおばあさんの家にホームステイを始める。あちこちの秘境で宝探しをしていた三人の独身貴族がかぐや姫のもとに集結し、求婚する。

 かぐや姫はおじいさんおばあさんの家ですくすくと小さくなり、赤ん坊になってしまう。おじいさんは赤子を山へ連れてゆき、ちょうどよいサイズの竹が割れていたので赤子をその中に収め、竹を元通りにするとその節が光り始める。そのまま放置して野山で竹を取りよろずのことに使いける生活に戻った。めでたしめでたし。

 

5. 逆再生・北風と太陽

 とても暑い日に全裸で歩いていた旅人が服を着始めると天候が急変し風が強くなった。

 

6. 逆再生・笠地蔵

 ある雪の夜、おじいさんとおばあさんの家にお地蔵さんの一団が現れ、老夫婦が所有する財宝を奪って去ってゆく。おじいさんが追いかけてゆくとお地蔵さんたちは何事も無かったかのように雪の中に並んで立っている。せめて笠だけでも、とおじいさんは思い、強奪地蔵たちが頭にかぶっていた笠を剥ぎ取り、一柱のお地蔵さんからは頭巾を剥ぎ取って自分でかぶる。笠を市にもってゆくが全く売れず、帰宅しておばあさんと二人で笠を解体して憂さ晴らしをする。めでたしめでたし。

 

まとめ

・狼は死から蘇りいろいろな生命を口から吐き出す傾向がある。インドの創世神話のような趣がある。

・赤ちゃん発見で始まる物語は、ネグレクト物語に変化する。

・時系列を逆にして再生すると、善人/善行が悪人/悪行に、悪人/悪行が善人/善行に反転するケースがある。

・「赤ずきん」のように、複数のアクターが同時に動くケースは逆再生の難易度が高い。

・「ヘンゼルとグレーテル」では、燃え盛る火の中から魔女のおばあさんを救出し、その後ヘンゼルが自分で檻に入るという、よくわからない筋になる。なお帰り道は鳥たちがパンくずを吐き出してくれることで道筋が判明する。「道に迷う」タイプのシーンは逆再生がうまく効かない傾向がありそう。そもそも元の物語において、「迷う」シーンが語りの時系列をリセットする働きを持っているからではないか。

・笠地蔵がいちばん酷い。